京都国立博物館蔵『近世珍話』翻刻 A4横 30P フルカラー ダウンロード版

京都国立博物館蔵『近世珍話』翻刻 A4横 30P フルカラー ダウンロード版
 京都幕末文書研究会編集発行 2014年刊

『近世珍話』(解題・竹本知行)
 文久3年、長州藩は「8月18日の政変」で京都を追われ、また六月の池田屋事件で多くの有為の志士を殺害・捕縛されたことで、京都政局における攘夷の「本山」としての地位を完全に失った。それでも同藩は失地回復の機会を狙い続け、元治元年、益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老が、朝廷への嘆願を名目に藩兵を率いて上洛した。長州藩兵は、山崎天王山・嵯峨天龍寺・伏見長州屋敷にあって、あたかも京都を包囲するかのように約一か月間布陣し続けた。その間、藩主親子の冤を朝廷に訴え続けたが容れられず、ついに7月19日、迎撃準備を整えた会津・薩摩ほか諸藩兵との間に戦端が開かれた。
 京都の中心部での激戦によって発生した火事は、のちに「どんどん焼け」と呼ばれた猛火となって京都市街を焼き尽くした。火災発生の原因については、しばしば撤退する長州藩兵が河原町・二条の同藩邸を放火したためとされてきたが、今日では、長州藩邸の周辺が焼け残っていることや、長州藩邸制圧を狙った薩摩藩兵が寺町・御池の本能寺を砲撃して炎上させていること、さらには長州藩士が哀訴のために押し寄せた鷹司輔煕前関白邸に会津・薩摩藩兵・一橋慶喜の手勢・新撰組が砲弾を撃ち込みそれを炎上させたことなど、長州放火説を疑問視する見解もある。
 出火原因がいかなるものであったにせよ、禁門の変に起因する「どんどん焼け」は京都の市井の人々の生活を破壊した大規模な災禍であった。この様子を庶民の視点から絵に描いた史料が今日いくつか存在する。その代表的なものが京都大学付属図書館所蔵の『甲子兵燹図』である。これは品川弥二郎によって設立された尊攘堂の史料であったものが京都大学に引き継がれたものであるが、前川五嶺の文絵を後に森雄山が写したものとされる。「甲子」は元治元年の干支表記、「兵燹」とは戦争による火災のことを指す。
 ここで、紹介する京都国立博物館所蔵『近世珍話』(慶応3年・1867年)は、前川五嶺が制作した小型の三巻の絵巻である。これは長く京都国立博物館の収蔵庫に眠っていたものであるが、2001年の同館の独立行政法人への移行に際して行われた収蔵品リストの作成作業の中で宮川禎一氏によってその存在が確認された。上・中の2巻は禁門の変の様子を描き、その内容は明治期に描かれた『甲子兵燹図』に類似しているが、下巻は慶応2〜3年の京都の世相を描いている。上巻では幕末の騒々しい世相について、「其起りハと伺へハ去る嘉永七甲寅年のころ異国より日本へ交易のことを願ひ出る」と述べるなど、当時の市井の人々が幕末世情不安の原因をペリー来航による「開国」と理解していたことを示している。また、下巻に描かれた「ええじゃないか」の描写は、騒動の発生から拡大に至る実相を今に伝えるビジュアル史料としても貴重である。 
 翻刻は同志社大学法学部竹本知行研究室内の古文書研究会(堤宗男・赤尾博章・岡部恒・村上繁樹・竹本知行【順不同】)によるが、表記にあたっては読みやすさを旨とし、仮名の清濁を整え句読点等の記号を適宜付した。また、本文書中には差別用語として今日では使用を差し控えるべき表現が数箇所にわたって見受けられるが、歴史文書としての性質上あえて原文のままとしている。
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